<Header>
<Author: 李白>
<Title: 經下邳圯橋懷張子房>
<Format: 格式不明>
<Year: 1964>
<BookName: 唐詩選　上>
<Translator: 斎藤晌>
<style: 現代文無假名>
<style2: 日本現代譯文無假名標注>
<TranslatedTitle: 下邳の圯橋を經て　張子房を懐ふ>
<BookPage: 28>
<UsedPage: 1>
<Feature: 4, 6>
<End Header>
<Poem>
子房未虎嘯，
破產不爲家。
滄海得壯士，
椎秦博浪沙。
報韓雖不成，
天地皆振動。
潛匿遊下邳，
豈曰非智勇。
我來圯橋上，
懷古欽英風。
惟見碧流水，
曾無黃石公。
歎息此人去，
蕭條徐泗空。
<End Poem>
<Translation>
張子房は漢の高祖（劉邦）を助けて天下を統一した豪傑だが、六國の一つである韓の人で、代々宰相の家柄であった。父の張平も釐王、桓惠王と二代の王の宰相をつとめ、桓惠王の二十三年（西紀前二五〇）に逝去した。子房はまだ幼少だったので官職につくことができなかったが、そのうちに父の死後二十年（西紀前二三〇）のとき、韓は秦にほろぼされた。
秦はそれから十年とたたないあいだに、魏、楚、趙、藏、燕、齊と順々に六國をほろぼして、紀元前二二一年、天下を統一して三十六郡をおき、みずから皇帝と號した。秦の始皇これである。
子房は相当の財産があったが、それを投げ出して刺客をもとめ、秦王を刺して韓のために復讐しようと考え、つかいはたしてしまった。東の方へ旅行して滄海君という豪族の長に逢って、その手下の力士を手に入れることができた。子房は重さ百二十斤の大鐵椎をつくらせてその力士に持たせ、秦の始皇が東國を視察にまわるのを博浪沙というところでまち受けた。力士は、行列が近づいてくると、始皇の乗っているらしい車めがけて大鐵椎を投げつけた。しかし命中したのは、じつは副車で、始皇は無事だった。始皇は激怒し、天下中に手配して犯人の探索につとめた。この一舉は、なるほど失敗はしたものの、勢威赫々たる最高權力者の皇帝を、一、二名のもので途中に襲撃したというのだから、その膽力、その勇氣、眞に一世をおどろかした。 
そこで子房は、姓名をかえて下邳というところにかくれた。を今の言葉でいえば、地下にもぐったわけ。もちろん誰がやったことか、すぐにわかるはずはないが、家財を散じて刺客をもとめていたことはやがて知れよう。そして、韓の重臣の後嗣として嫌疑がかかってこないとはいえない。それをうまく逃げおおせたということは、智惠がなくてはできないことだ。だが、彼の智惠は、もっともっと大きい深いものだった。
子房はひまなおりに、下邳を散歩していて邳橋という橋を通りかかった。すると橋の上に一 人のいやしい服装をした老人がいた。子房のすぐわきのところで、自分のはいていた履を橋の下に落とした。子房のほうをむいて「おい、若いの、下へおりて履をとってくれえ」といった。子房はびっくりもしたが、ぐっとしゃくにさわった。なぐりつけてやろうと思った。だが、老いぼれの姿を見て、しいてがまんして河原へおりて履を拾ってやった。おやじは「はかしてくれ」という。どうせ拾ってきたついでだ。貴公子然たる服装をした子房は、地上にひざまずいて 、おやじにはかせてやった。おやじは、それを足で受けると、笑って立ち去った。
子房は、傲慢といおうか人を食ったといおうか、このおやじの態度にあきれかえって、じっと見送っていた。おやじは五、六丁ほど行くと、また引返してきた。「孺子教う可し（若いの、見どころがあるわい、数えてやる資格があるぞ)、今日から五日目の早朝ここへきて、またわしに逢うのだ」奇妙なことをいうと思った子房は、「承知いたしました」と答えた。
五日目の早朝、約束どおり出かけて行くと、おやじがもうきていた。怒っていうことに、「老人と約束しておくれてくるとは何ごとじゃ、これから五日目の朝、早くやってこい」 
そこでまた五日目に、鶏が鳴くと出かけて行ったが、またおやじが先にきていた。また怒っていった。「おくれるとは何事じゃ」そういって立ち去った「また五日目に早くやってこい」
それからまた五日目に、子房は夜半にならないうちに起きて行ってみた。するとしばらくしてから、おやじがやってきた。上氣嫌で「うん、これでええのじゃ」といった。一卷の書物をとり出して、「これを讀んだら王者の師になれる。十年後には頭が出せるぞ。十三年後にわしに逢りことになろう。濟北の穀城山下の黄色い石がとりもなおさずわしじゃよ」そういって去って行ったが、それ以上何ごともいわず、二度と姿を見せなかった。夜が明けてからその書物を見ると、太公望の兵法であった。子房は、この書物を勉強して手からはなさなかった。 
十年すると、陳涉らの叛亂が起こった。たまたま沛公（劉邦、後の漢の高組)が數千人に將としてが下邳の西を占領したので、子房もそこへ行って沛公に面會し、一見して意氣投合した。 
それからは太公望の兵法で沛公に説いて策戦の指導をした。ついに沛公は天下を統一して漢の高祖と呼ばれるようになり、張子房を留侯に封じた。邳橋で老人から太公望の兵法をさずけらてから十三年目に、高祖に從って濟北を過ぎたことがあるが、はたして穀城山下で黄色い石をみつけた。そこに祠を立てて、この石を御神體として祭った。老人の姓名はわからずじまいだが、それ以後、黄石公と呼ぶようになった。
わたくし(李白)は下邳へ旅行して、昔からいいつたえの圯橋の上にやってきた。そして千年も前のことを思えば、子房の英雄の風姿がしたわしく目に見えるようだ。だが、實際、目に見えるのは、ただあおい水の流れだけ。もちろん黄石公などというおやじが出てきそぅにもない。ああ、張子房がいなくなってから、この地方はぬけがみたいなようだ。この徐泗の一帶は、ものさびしく、うつろで、何もない。思わず溜息が出てくる。 
<End Translation>